2026.05Essay

回り道の英語遍歴――量は質を凌駕する

あれは、張り詰めた冬の空気のなかで行われた高校2年生の実力テストだっただろうか。手元に返ってきたのは、悪くはないが、決して誇れもしない、いかにも私らしい曖昧な点数が記された紙切れだった。その数字のすぐ傍らに、1年生のときに英語を厳しくも温かく指導してくださり、私の担任でもあったN先生の特徴的な筆跡が残されていた。今でもその赤いインクの軌跡を鮮明に思い出すことができる。

All you have to do is to memorize. (あなたがすべきことは、ただ暗記することだけだ)

言葉の冒頭には、私の名前が「Mr. ○○○」と丁寧な文字で添えられていた。それは紛れもなく、私という怠惰な魂に向けられた、静かな宣告だった。これを目にした瞬間、自分の薄っぺらな内面をすべて見透かされたような気がして、冷や汗が背中を伝うのを覚えた。「お前、サボっているだろう」――文字の背後から、先生の鋭い眼差しが語りかけてくるようだった。かつての教育者が持っていた洞察力というものは、時に恐ろしいほどに正確だった。事実、当時の私は怠惰の沼に深く足をとられていたのだから、それを見抜かれるのは当然の帰結だった。しかし、本当のことを言えば、私は生来の漂流者であり、産声をあげたその瞬間から現在に至るまで、人生のあらゆる局面においてサボり続けている。先生、あれは一時の気の迷いなどではなく、私の血肉に刻まれた本質だったのです。今更ながら、遠い空に向かって頭を垂れるほかない。

親の話によれば、幼い私に何らかの「英才教育」らしきものを施していた時期があったという。だが、現代の洗練された視点から見れば、それは教育と呼ぶにはあまりにも素朴で、不格好な試みだった。もう半世紀近くも昔のことだ。文化の薫りも薄い辺境の町で、本を読む習慣すら持たない人間が思いつきで施したカリキュラムなど、客観的な効果は皆無に等しかったに違いない。当然、当事者である私の記憶の底には、その時代の風景は一滴も残っていない。後年、私がそれなりの英語を操るようになった姿を見て、親は「あの頃の蓄積が、今になって実を結んだのだ」と満足げに語ったことがあった。内心では「そんなわけがないだろう」と苦笑しながらも、私はその言葉をそっと胸にしまい、何も言わずに頷いた。言葉を交わさないこと、それもまた、一つの静かな親孝行の形なのだろう。

しかし、記憶の地層の底に埋もれたその頼りない「英才教育」も、私の心に細い轍を刻んでいたのかもしれない。小学校に上がるのを契機に、私はある英語塾の門を叩いた。なぜだか、自分から「行きたい」と口にした記憶がおぼろげに残っている。小学校4年生の終わりまでそこへ通ったが、黒板に何が書かれていたかはほとんど覚えていない。ただ、配られたオリジナルの通学用バッグの質感や、赤と緑の背表紙をしたイラスト付きの単語帳の色彩だけは、今も鮮やかに蘇る。緑の冊子には、異国の地に息づく昆虫や植物が細密画のように描かれていた。成果を急かされない、実におおらかな時代だった。単語テストのような無粋な催しはなかったため、私はただの興味から、美しい絵本をめくるようにそのページを眺めていた。それでも、mandarin orange(ミカン)や ladybug(テントウムシ)といった、どこか音楽的な響きを持つ単語は、自然と私の意識に染み込んでいった。

今にして思えばフォニックスの端緒のようなことも経験していた。ブラウン管の画面のなかで「B」という文字が跳ねるたび、スピーカーから「/b/」という奇妙な破裂音が漏れる。それを見つめながら、子どもながらに「なぜ『ビー』と呼ばずに『ブ』と呟くのだろう」と、小さな首を傾げていた。本人の意識としてはただその場所に身を置いているだけだったから、知識として定着していたわけではない。親もまた、目に見える「成果」などを求める風でもなかった。そもそも、子供の能力を数値化するような無慈悲なテストすら存在しない世界だったのだ。ただ、その幸福な空白の時間のおかげだろうか、私はその後の人生において、英語の「つづり」に関して苦労した記憶が一度もない。スペルミスで恥をかいたこともほとんどない。それは、あの小学生時代の、静かな光のなかで培われた感覚の賜物だったのかもしれない。余談を許されれば、私はドイツ語でもフランス語でも、そのつづりを驚くほど容易に記憶することができる。あるいは、私に与えられたささやかな天分なのかもしれない。逆に、フランス語のer動詞のように、つづりはめまぐるしく変わるのに発音は頑なにその姿を変えないという、あの底意地の悪い屈折には、未だに身体的な拒絶反応を覚えてしまう。つづりと音声が織りなす、ある種の「肌感覚」のようなものは、やはりあの幸福な雨降りの日々に育まれたものとしておこう。

季節が巡り、私はある種の惰性のまま中学受験の荒波に身を投じることになった。当時の時代背景や私が育った地域を考えれば、それは極めて異端であり、周囲からは奇異の目で見られる進路だった。小学5年生から進学塾へ通い始めたため、英語塾の細い糸はそこで途切れた。当時の小学校に英語という教科はなく、受験の合否にも何の影響も与えなかったからだ。2年間、それなりに机に向かった記憶はあるが、他に情熱を傾けるべき対象もなかったため、ただ淡々と押し寄せる課題をこなしていたに過ぎない。合格の報せを受け取ったときも、胸が躍るような歓喜は訪れなかった。「これまで費やしてきた時間が、無意味な砂粒にならずに済んだ」という、乾いた安堵感だけがそこにあった。しかし、一つだけ、今でも忘れられない光景がある。入塾して間もない頃、埃っぽい塾の事務所の片隅で、塾長を相手に例の緑の単語帳を音読させられる機会があった。後に知ることになるのだが、その塾長は私が進学する高校の大先輩だった。私の拙い朗読を聴き終えた彼は、眉をひそめて「君は発音がネックだな」と静かに告げた。そう、私にも、世界の言葉から見放されたような、ひどく不器用な発音しかできない時代があったのだ。

中学校の門をくぐったとき、私の人生の軌道を大きく変える最大の事件が待ち受けていた。入学式の厳かな空気のなか、突如として響き渡ったブラスバンドの演奏。その圧倒的な音の壁に、私は心を完全に奪われてしまった。こうして、根っからのサボり魔だった少年は、音楽という名の甘美な迷宮に出会うことになる。人生のすべてを賭けても惜しくないと思える、巨大な対象を見つけてしまったのだ。だが、その狂熱の話は一度、幕の裏に下ろしておこう。1年生のときに英語を教えてくださったのは、強烈な色彩を放つ個性派のM先生だった。このとき、私は人生で初めて学問としての英語を「面白い」と感じた。部活動は呼吸をする暇もないほど多忙を極めていたが、並行して通っていた塾では、いかにも受験英語らしい、骨組みのしっかりとした英文法を叩き込まれていた。学校の授業と塾の講義が、まるで見えないパズルのピースのようにはまっていく感覚が心地よく、私は貪るように言葉の仕組みを学んだ。その頃には、すでに数学や理科は冷酷な迷路のように感じられ、嫌悪するようになっていたが、言葉を扱う授業だけは、経験豊富な教師たちの手によって魅力的な物語へと姿を変えていた。

中学3年の秋が訪れるまで、私はそれこそ命を削るようにして部活動にすべてを捧げた。本気で音楽大学の門を叩き、音のなかで生きていこうと誓っていた。しかし、冷酷な現実として、私たちの部活動は何の成果も残せなかった。率直に言って、伝統あるその学校の吹奏楽部の歴史において、諸先輩方に顔向けができないほど不甲斐ない、惨憺たる成績だった。その深い挫折のせいだったのか、あるいは一気にギアを切り替えて過酷な受験勉強に身を投じなければならなかったからか、音楽の道へ進もうという熱意は、まるであの夏の終わりの夕立のように、一瞬にして消え去ってしまった。長い年月を経て今振り返れば、それは「精一杯やりきったから悔いはない」という、美しい諦念だったのかもしれない。驚くほど鮮やかに、私の心のなかで舞台転換が行われた。部活動という巨大な重力を失い、ぽっかりと空いた心の空白を埋めるように勉強に没頭しているうちに、音楽への執着そのものを忘却の彼方へ置き忘れてしまった、というのが正しいのかもしれない。

険しい受験を乗り越え、私は地元の高校へと進学した。地方都市においては、古めかしい伝統を誇る公立高校が、いかにも偉そうな顔をして街の中心にそびえ立っているものだ。私の進学先も、まさにそのような場所だった。そしてまたしても、私はやるべきことを失い、手持ち無沙汰な時間を抱えることになった。今度こそ、自分の未来のために真面目に机に向かうべきだったのだろう。だが、そうなるはずがなかった。私は根っからのサボり魔なのだから。入学して間もない頃、体育館の薄暗がりのなかで部活動の紹介行事が行われた。上級生としてステージに現れたのは、中学時代から校内でその名を知らない者はいなかった高名な先輩だった。言葉を交わしたことなど一度もなかったが、その鮮烈な風貌は私の記憶に焼き付いていた。彼は後にスポーツ界の片隅でその名を知られるようになり、大人になってからもテレビの画面で見かけることがあったが、高校時代から群を抜いて魅力的な人間だった。その先輩だったか、あるいは隣に立っていた人間だったか、記憶の輪郭は曖昧だが、誰かがステージの上で1本のギターを激しくかき鳴らしていた。その瞬間、私の胸に激しい雷が落ちたわけではない。しかし、それは人生のシナリオに深く埋め込まれた、不穏な伏線だった。高校1年の終わりが近づく頃、私は導かれるようにギターを購入し、爪を血に染めながら弦を弾き始めることになる。結局のところ、私はまたしても音の渦へと引き戻されたわけだ。今にして思えば、高校時代における最大の出来事は、後に私の人生に深く関わることになる音楽ディレクターとの出会いだった。だが、それはもう少し先の物語だ。思い返せば、彼と積極的に友情を結ぼうとした記憶はない。ただ、いくつかの奇妙な偶然が折り重なり、気付けば今でもつるんでいる。運命という巨大な織物の前では、人間のささやかな意志など、風に吹かれる塵芥に過ぎないのだろう。

話を、あの懐かしい英語の教室へと戻そう。冒頭に記した通り、1年生のときの担任は、あのインクで私に宣告を下したN先生だった。朝の張り詰めたホームルームから夕暮れまで、私たちは毎日顔を合わせていた。N先生が教壇に立った最初の授業の光景は、今でも映画のワンシーンのように脳裏に浮かび上がる。教室の扉が開いた瞬間、先生は一切の躊躇なく、激しい激流のような英語を私たちに浴びせかけたのだ。その言葉の意味は大半が宙に消えてしまったが、それは一種の自己紹介だったのだろう。そのなかで、先生が「お見合い結婚」をしたというエピソードだけが、私の耳に奇妙な引っかかりを残した。先生はそれを arranged marriage と表現した。その時すでにその語彙を持ち合わせていたのか、あるいは後になって記憶のなかで翻訳されたのかは分からない。ただ、その言葉の響きだけが、教室の窓から差し込む光のなかにいつまでも漂っていた。

特に1年生の1年間、先生はまるで手品師のように趣向を凝らした授業を展開してくれた。先生が夜を徹して作ったであろうオリジナルのプリントは、多感な私の知的好奇心を激しく揺さぶり、私はあっという間に言葉の迷宮に魅了されていった。学校中のあらゆる教科をサボり倒していた私が、英語の時間だけは、背筋を伸ばして真面目に机に向かっていた。私の英語運用能力の土台は、間違いなくこの幸福な1年間のなかに埋め込まれている。あの頃のN先生が、私の世界の礎を築いてくれたのだ。

2年生になり、教壇に立つ教師の姿が変わった。新しい担任のS先生は、氷のような冷徹さと、時折覗かせる春の陽だまりのような温かさが同居する、不思議な魅力を持った人物で、私は密かに好感を抱いていた。しかし、まだ精神的に幼かった当時の私にとって、S先生が展開する授業は、退屈な砂漠のように感じられた。いや、より正確に言うならば、言葉の奥にある美しさを理解するために必要な痛みを伴う努力を、私が完全に放棄していたのだ。そう、私は再び、心地よい怠惰の海へと深く潜り始めていた。無理もない、私の部屋にはすでに、手に入れたばかりのギターが怪しい光を放って佇んでいたのだから。書籍の名前は忘却の彼方だが、今で言う『Evergreen』のような、分厚い総合英語教材が配られ、私たちはそれを進めるよう命じられていた。しかし、杉山忠一氏の名著『英文法詳解』が冷徹に描き出す「should + 完了形」のような峻厳な文法規則(例えば You should have attended the party. ――お前はあの宴に参加すべきだったのに、という後悔の調べ)に触れるに至り、私の心は急速に冷めていった。サボり魔が最も憎悪するのは、生命の通わない無機質な暗記である。物語に没頭しているうちに、いつの間にか言葉が身体に馴染み、気付けば高い峰に登り詰めている――それこそが至高の学びであり、ただ記号を脳内に詰め込むだけの暗記など、死んだ灰のように感じられたのだ。

当然のことながら、私のその傲慢な認識は間違っていた。語学という名の城を築くための煉瓦は、紛れもなく暗記という地道な作業によってもたらされる。その血の滲むようなプロセスを軽蔑したツケは、大学受験という冷酷な審判によって支払われることになった。私は惨敗を喫し、這う失意のなかで、どうにか拾い上げてもらった大学へ滑り込むように進学を決めた。もし今、時を遡る切符が手に入るのなら、法学部という無味乾燥な選択をしたあの日の自分を、激しく殴りつけてやりたい。「おい、そんな学問は、お前の魂の欲求リストの335番目にも入っていないだろう」と。

こうして私は、東京の張り詰めた端の方で、孤独な生活を始めることになった。狭く、四角いアパートの部屋で、私はまたしても生きる目的を見失う。仕方が無いので、大学の講義という、あまりにも牧歌的で手応えのないシステムを利用して、1年ほど静かに時間を潰した。2年生になり、大学の退屈な門を飛び出してバンド活動という熱病に身を投じることで、その平坦な日々からはようやく卒業することができた。しかし、運命という気まぐれな神は、どうしても私を言葉の世界から解放したくなかったようだ。2年生の英語の講義を担当していたのは、他大学から週に一度だけやってくる、物静かな男性講師だった。すでに大学の講義すらサボり倒していた私は、すべての時間をその教室で過ごしたわけではない。しかし、ある曇った日の午後、彼は私の口から漏れた英語の発音を、鋭く遮るようにして直したのだ。

democracy と democratic。この二つの言葉において、冒頭にある「e」の母音は、全く異なる色彩を持って発音されなければならない。それを混同し、同じ平坦な音で発音していた私の傲慢さを、彼は優しく、しかし決定的に矯正した。その瞬間、私の頭のなかで何かが弾けた。私は初めて、言葉の「皮膚」である音声というものを、強烈に意識するようになったのだ。現在に至るまで、私は独学の暗闇のなかで音声学の細い糸を手繰り続け、その言葉の根源を探っているが、私の探求の原点を探せば、あの薄暗い教室で講師が放った一言に突き当たる。すでに名前も忘れてしまったあの人が、私の人生における「最後の師」となった。

誰かから直接手ほどきを受けるという意味において、私の英語人生における教育の歴史は、ここで完全に幕を閉じる。それは、私がこれまで英語という広大な海に費やしてきた全時間の、おそらく2%にも満たないわずかな滴に過ぎない。そう、残りの98%の時間は、孤独な独学の荒野によって満たされている。世間の人々は、それを血の滲むような「努力」と呼ぶかもしれない。だが、その果てしない旅路は、大学の入学手続きを終えた、まさにその日から始まっていたのだ。

大学の門をくぐったとき、私の冷え切った心のなかに、かすかに灯る情熱が二つだけあった。英語の聴解(リスニング)を極めること、そして、世界の根源を問う哲学に触れることだ。だからこそ、私は法学部ではなく、文学部という言葉の迷宮に進むべきだったのだ。私の大学受験期には、センター試験にリスニングという科目は存在しなかった。言葉の音を聞き取れずとも、紙の上の文字さえ処理できれば、合格の栄冠は手に入った。したがって、当時の私は本物の英語の音声を、一語たりとも聞き取ることができない、耳の不自由な旅人だった。しかし、それではいけないという、切実な危機感だけが私の胸を焦がしていた。受験という冷酷な重力から解放された今こそ、静かな湖面を見つめるようなスタンスで、世界の音を聴き取れるようになりたいと願った。

一人暮らしを始めるにあたり、私は14インチの、まるでおもちゃのような小さなテレビを購入した。当時のそのサイズでは、音声はモノラルであるのが常識だったが、私はあえて、僅かな小遣いをはたいてステレオ仕様のモデルを選んだ。夜の帳が下りる頃、ニュース番組の副音声から流れる、本物の英語の音を聴きたかったからだ。N先生がかつて授業の合間に、「1,000時間、ただその音を浴び続ければ、ある日突然、霧が晴れるように英語が聞こえるようになる」と、まるでおとぎ話のように語っていたのを、私は一言も漏らさず記憶していた。それならば、理屈は後回しにして、圧倒的な言葉の豪雨を身体に浴びせればいいのではないか。そう考えた私にとって、新生活の部屋に響くステレオの副音声は、孤独を紛らわせるためではなく、血を入れ替えるための儀式だった。

朝、微かな光が窓から差し込んだ瞬間から、大学という退屈な場所から帰宅して泥のように眠りにつくまで、私の部屋には常に異国の言葉が流れ続けていた。1日に10時間は聴いていただろう。季節が巡り、秋の風がベランダの洗濯物を揺らす頃、私の累計時間は大気圏を突破するように1,000時間に達した。そしてある朝、本当に奇跡が起きた。それまで無機質なノイズの塊でしかなかった雨の音が、突如として意味を持った「言葉」として、私の脳内に鮮やかに結像し始めたのだ。それから約30年。言葉を運ぶ器は、ブラウン管のテレビから、掌のなかのポッドキャストへと姿を変えたが、この静かな儀式は一日たりとも途切れることなく続いている。もちろん、若き日のように毎日10時間も没頭することは叶わないが、今でも毎日の生活の隙間を縫って、2時間ほどはその音に耳を澄ませている。この長い年月の間、世間的な評価を測るためにTOEICや英検といった資格試験の会場にも足を運んだが、それらのために机に向かって特別な受験勉強をした記憶はほとんどない。私はただ、日々の暮らしのなかで、言葉の川に身を浸し続けていただけなのだ。

しかし、ただ漫然と水流に身を任せているだけでは、自ら言葉を紡ぎ出すための強靭な筋肉は育たない。話す、書くという、能動的な表現の質をどこまでも高めるためには、自分が体内に取り込んでいるインプットに対して、極めて「意識的」でなければならない。例えば、He has made progress. という短いフレーズを耳にして、その意味をただ理解できるだけでは、自らの口からその言葉が生まれることはない。progress(進歩)という名詞の傍らに寄り添うべき動詞は make であるという、言葉と言葉の美しい婚姻関係を明確に意識し、それを過去形であれ、未来の響きであれ、あるいは受動態の影であれ、自分の言葉として瞬時に世界へ放てるようにならなければならない。「聴いて理解すること」と「自ら発信すること」の間には、生と死ほどに深い、全く異なる次元の溝が横たわっている。これは、高名な教授が講義室で教えてくれた知恵ではない。私自身が言葉を書き、見知らぬ他者に向けて話さざるを得ない荒野に立たされたとき、自らの傷口を見つめるようにして気づいた、冷厳な真理だった。

感度の高い読者であれば、とっくにお気づきのことと思うが、私の歩んできた道は、気の遠くなるような遠回りであり、非効率の極みである。昨今の書店には「ミニマルフレーズ」のような、最小限の努力で最大限の成果を謳う賢明な単語帳が溢れており、それらを利用する方が、私の泥臭いアプローチよりも遥かに合理的で、理にかなった学習法だ。また、様々な批判はあるにせよ、日本の大学受験のための英語学習は、極めて強固で実用的な骨組みを提供してくれる。現代には、最短距離で目的地へと至る、美しく舗装された「学習ルート」が確立されている。暗記という作業も、最新の脳科学に沿って戦略的に行われるべきなのだ。しかし、私はそのいずれの王道も歩まなかった。ただひたすらに、世界の広野から流れてくる言葉の音を、自らの身体に浴びせ続けてきただけだ。

だが、長い旅路の果てに振り返るとき、私にはこの迂回路こそが唯一の正解だったと言い切ることができる。なぜなら、これまで私が人生の途上で出会ってきた数多の人々のなかで、私を超える本質的な英語運用能力を備えていると感じる表現者に、ただの一人も出会ったことがないからだ。いかにも洗練された空気をまとった帰国子女の方々とも席を同じくしてきたが、言葉を紡ぐ総合的な力、とりわけ白紙の上に論理の城を築く「記述力(ライティング)」の段になると、私の足元に及ぶ者は少なかった。流暢に言葉をさえずることはできても、インクで思想を固定するとなると、その筆先が微かに震えるケースを多く目にしてきた。少なくとも、私という一個の生命に関する限り、圧倒的な「量」の豪雨が「質」という壁を突き破り、内面を根本から変容させたのだ。

ここ数年は、言葉の根源である語源への興味の扉を開けたことから、英語史という学問の深層を学ぶようになり、かつて嫌悪していた「座学」的な勉強にも静かに着手している。しかし、私の内面に流れる本質は、高校時代のあの怠惰な日々と何も変わっていない。相も変わらず、新しい朝が訪れれば、自動的に端末にダウンロードされているポッドキャストの再生ボタンを押し、ほんの少し上質な煎茶を淹れて、その温かい雫を口に含むことから私の1日が始まる。聞き取れない不協和音があっても、眉をひそめることはない。意味の分からない未知の単語に出会っても、手元に辞書がなければそのまま通り過ぎる。どうせ、旅を続けていれば、いずれまた世界のどこかの交差点で、その単語と運命的な再会を果たすことになるのだから。

尊敬するN先生が、あの赤いインクで遺してくれた「あなたは暗記さえすればいいんですよ」という至言を、徹底的に拒絶し、逃げ回り続けてきた私の不届きな英語人生ではあるけれど。先生、どうにかそれなりに、美しい形になりましたよ。

大学3年生のとき、行政法の教授が講義の終わりに、寂しげな声を響かせて漏らした言葉が、私の心に深く突き刺さったまま、今も抜けない棘のように残っている。

「芸は身を助く」

その言葉が、私の人生にどのような影を落とすことになったのか、その話については、また別の夜に譲ることにしよう。